固茹卵か温泉卵か

正統派SFがあるくらいだから、正統派ハードボイルド(HB)というものがあってもよいだろうということは、誰もが当たり前のように考える。異論はあるまい。そこで、考えた。

小学生の頃からミステリには親近感のあるわたくしであったが、HBに対しては、大人になるまで、また、大人になってからも長い間、拒絶反応があり、殆ど親しむことはなかった。

理由は、HBの様式美に必然的に付随している特有の「におい」に対して、一種のナルシズムというものが鼻について鼻について仕方なかったということである。
また、HBには往々にして女々しい文体が多い。外殻が固ければこそ尚更それが浮き立つ。
わたくし自身、読まず嫌いの偏見ではないかと思っていたところもあったのであるが、実際に、数十人の作家の作品に触れてみて、その偏見は可成り核心を突いているところがあることを確認した。

ここには敢えて記さないが、そういう勘違い作家たちがたいそうな人気を博して、書店の棚に特集を組まれている事例を多く散見してきた。
あの蔓延りようは目を瞑るにしても、周囲の甘やかしよう、読者を含めた書籍関係者諸氏は、一体何を考えているのか。

わたくしはきっと傍流で偏屈に違いないのではあるが、HBとは相当に危うい橋の上を歩く世界に近い、と考察、定義をするものである。
もう少し分かりやすく例えるのであれば、HBを卵料理として、水っぽくなく、粉っぽくなく、固すぎず、柔らかすぎず、絶妙の茹で加減の卵でなくてはならないということである。

そこで、冒頭の正統派HBであるが、わたくしにとっての代表的な一冊を掲げるとすれば、
「幻の女」(香納諒一)。

[現在版の表紙が好きでないので敢えて写真は載せません]

自称傍流という伏線を張りつつ、結構、意外な線を突いたのではないかというのがわたくしの作戦。
ある意味、大衆的に過ぎるという印象を持ってしまうのかもしれない。
その通り、端正でケレンな手法を全く使わない、大変分かりやすい作品である。
そして、少しでもバランスを崩すと、あの女々しさの奈落に落ちてしまうところのそのぎりぎりのところで踏ん張って堪えているとも言える作品でもある。

こうした、ここしかないというピンポイントの着地点の奇蹟が生まれる背景は、作家の力量以外の何物でもないのだが、そして、この作家は他にも優れた作品を多く輩出しているのであるが、「幻の女」的な真正面正統派HB作品は、後にも先にも出していない。
平易なようでいて、それほどに、この絶妙な茹で加減というのは、難しいということでもある。

正統派作品をコンスタントに作り出すことは、至難の業であるというこの大法則に逆らう唯一無二の希有な作家は、原籙であろう。
寡作家であるので、どの作品を掲げても構わないが、とりあえずここでは、「そして夜は甦る」を挙げておこう。
沢崎シリーズはどれも外れがないといってよい。

HBの王道を行くような特有の臭みがあって然るべきなのに、そういったアクの強さ、卵臭さを感じさせないのは、驚きに値する。
そして、この沢崎シリーズは、実写化した途端、その本来の味は霧消してしまうのだろうな、ということも確信する。

なにより、主人公の沢崎を演じられる俳優は、皆無である。
配役イメージが全く浮かばないではないか。誰かが演じた途端、陳腐な活劇物になってしまいそうだ。
いくらH.ボガートやR.ミッチャムがマーロウを演じても、小説のフィリップ・マーロウはマーロウなように、原作の沢崎を超える実写化は不可能であると、この際、啖呵を切っておこう。

これが破られれば存外嬉しいことには違いないのだが、そもそも、よい原作の顴骨堕胎な映画ドラマを観ることほど、喪った人生の時間の貴重さに歯噛みする落胆の機会はほかにないということも、残念ながら、ここで予め愚痴っておかねばなるまい。

本日の音楽♪
「ディープ パープル」(五十嵐浩晃