馬は蹴飛ばし、猿は投げ捨て、犬は見向きもしない

例えば、国政選挙もそう遠くない折、永田町方面の諸先生方々が「政治改革」と熱心に叫んだとして、それを聞いたわたくしたち有権民の殆どがそれを真に受けることはなく、彼の言や彼のひとを信用する気になど到底ならないのと同様に、彼らや役人、学者様や評論家を標榜する論者の方々が、一つ覚えのように「*[道州制]推進」と主張していたりしたならば、何はとまれ、発言者自身の発言凡てをはなから信用しないことに限る。


この場のモットーに反する大変不穏当な物言いには違いなく、恐縮至極ではあるが、かくいうほどに「道州制」というものは、胡散臭い代物であるとわたくしは吟味判断をしているということである。
この言葉が出てきたら、相手の目の前でこれ見よがしに眉に唾をつけてみせるべし。諌言する。
何よりもその主張の論旨が、たいへん空虚かつ乱暴で、無責任であって、そして、根拠に乏しいこと。それにも関わらず、このフレーズさえ唱えていれば何某か格好が付くのではないかという、ある種の底の浅さ、あさましさというものを感じて、わたくしは不快な思いになる。


わたくしたちにとって、道州制によっていったい何がどのように良くなり、悪くなるのか、もっと真剣に現実的に考えてみる必要がある。
確かに、《道州制によって私たちの生活はこう変わる!》といった書籍も多く出されている。しかし、それらは単に筆者が求める理想郷の姿を語っただけのものであったり、道州制如何に関わらず達成可能なものも多く含まれている。また、変革に伴うリスクベネフィット(特に、道州制固有のリスクベネフィット)を客観的・網羅的に天秤に掛けて総合評価をしている節は見あたらない。
念のために、付言しておくが、理想論ばかり語っているから信用できないということではない。
夢物語でも理想郷でも良いのであるが、責任を持って変革の必要性を語るのであれば、十分な説得力と根拠を備えて語るべきであるということである。


まず、中央集権によって、国に権力が過度に集中していることに伴う弊害を道州自治政府に分散することができる、という説明がある。
而して、道州自治政府の樹立によってこの弊害を除去できるという必然性が、わたくしには分からない。
過度集中の弊害というのもよく分からないのであるが(現に紙上を賑わしている弊害案件の多くは、権力集中によることに伴う必然的問題というよりも、権力行使者の瑕疵(不作為)や特定者への不公平不公正な作為といった過度集中とは無縁の問題のように思える)、何故それが道州制によって回避できるのか。「住民の監視の眼が行き届きやすい」といった脱力発言は、流石に最近は見かけなくなってきた。
例えば、一級河川を国ではなく、地方政府が管理する。何がどのようによくなるのか。行政の無駄(重複)を避けることが出来るなどといった主張は、権限委譲の問題であり、この際、道州制とは直接関係ない。


行政権力の分散によって道州政府同士が競い合い、行政サービスのレベルアップが図られるであろう、という説明に対しては、行政サービスは競い合うべきものなのかという反論をまず返したい。こういった発言は、全くもって住民本位の視点、シビルミニマムの視点ではない。
また、競い合えば、行政サービスが向上するという必然性も理解できない。どういったメカニズムが(脳内で)作用して、そのような結論が導き出されるのか。偶さか、住民が最適居住地を求めて、日本全国自由に引っ越しを繰り返すといったモデルを想定しているのではあるまい。剰(:あまつさ)え、数千自治体が存在する現状さえ顧みていない。
そもそも、市場原理という名の競争の効用ばかりしか唱えないネオリベ的主張は、いい加減に、余りに無責任に過ぎる(魔法の箱という名のブラックボックスの中に放り投げて、後はなんとかなるでしょう的因果律楽観論)ことを大いに自覚すべきであろう。


住民自治に一番近い行政に権力を極力委ねることを基本とする「補完性の原則」は、否定しない。
現時点における我が国の基礎的自治体がその任をまっとうする能力を十分に有しているとは思わないし、そのガバナンス機能強化は必要不可欠であるが、道州制によって、なにゆえそれが可能になるというのか。
基礎的自治体のみならず、住民個々の側からの住民自治の強化は、特に現下の我が国において、大切な課題であることは否定できない。
しかしながら、この住民自治の強化と道州制はイコールフッティングではない。現に、基礎的自治体の多くは、道州制には反対している。
砂時計を反対側に置き直すように、統治機構というものは簡単には動かないし、リスクヘッジの観点からも容易に動かし得るものとすべきではない。


東京一極集中を是正すべきとの意見がある。なるほど、住宅(地価)、通勤、環境悪化、安全保障といった一極集中の弊害は極力排除していく必要があろう。
だが、これも繰り返しになるが、道州制によって、なにゆえ、一極集中が排除され得るのか。
特に、本社機能の集中といった経済(カネ)の偏在の問題とガバナンス機構とのあり方を混同すべきではない。
道州制で地方が潤うというのは甘言・弄言・幻想であり、無人の砂漠における狩猟ツアーでの皮算用そのものである。
情報やモノは、統治構造とほぼ無関係にボーダレスで存在する。
道州制になれば、経済人(企業ソシキ)は税制、融資、補助等のサポート体制の観点から最も条件のよい道州に選択立地することが可能であるが、住民(ヒト)はそうはいかない。
また、凡ての道州において、相応規模のヒト・モノ・カネが備わった自立的(理想は自律的)経済圏が構築されるという保証はどこにあるのか。田舎はお気の毒で済む話なのだろうか。


現在の都政が自治体の中で最も優れているから、経済が東京に集中しているわけではない。
ましてや首都機能が集中の要因となったという歴史的経緯はあるにせよ、首都機能そのものが経済集中の必要十分条件というわけでもないことも周知である。
首都機能移転の悲惨な実験事例は、他国でも見られるところである。
統治と経済は切り離して考えるべきである。


要すれば、こうしたスローガンは、”change”の代名詞として、あるいは閉塞感打破の手段として、一つ覚えの念仏のように叫ばれているだけに過ぎないのではないか。「明治維新終戦に次ぐ大改革」などという看板を掲げる者はその典型である。
我が国の将来のありようは、分権国家であるということがはなから宿命づけられているものではない。
現状に安穏としていていいはずがない。何かを変えなければならない。それは分かる。
しかし、変え方というものがある。統治機構という「器」を変えるよりも、地方交付税交付金といった「中身」を変えたほうが効果のほどはよほど透明性があって、かつ、分かりやすい。
先に器を決めてしまってから、あとで中に何を入れるかを考えるというプロセスの愚に対して、わたくしたちは、先代の選挙区割改革や構造改革といった手法で十分に懲りてきているはずである。


本日の音楽♪
「胸が痛い」(憂歌団