旅の重さ

わたくしの父親は、若い頃に全国を行商して回ったという話をわたくしが小さい時に、亡母親から聞いたことがある。瘋癲の車寅次郎というわけではなかったようだが、結構奔放な青年時代を送っていたらしい。
幼心にわたくしはそれを聞いて憧れの気持ちを抱いていたし、今でも正直羨ましく思っているところがある。
わたくしも、いっときは、焼き芋屋さんを希望職種に掲げ、リヤカーを曳きながら全国行脚することを夢見ていたこともあった(いまは、おいしく食べる側に回っている)。


さて、いまこの時代で全国津津浦々訪ね歩くことを伴うような職業職種というものはあるのだろうか、と思いを巡らしてみる。
運輸運送関係業は、訪ね歩くという意味において、ちょっと違う気がする。
とやまの薬売りもせいぜいブロック単位の行商であろう。
「食いしん坊万歳」のレポーターはどうだろうか。あれは、職種なのか。しかも安定した商売とは言い難い(現にもう当該番組は見かけない)。
養蜂業などはどうだろう。特定点以外立ち寄らないことが難点か。
マイナー演歌歌手、どかどかうるさいR&Rバンド、旅芸人、修験者、浅見光彦


わたくしの言うところの「訪ね歩く」の意味は、「旅」に等しい。
旅であるから、それは物見遊山と同義である。がしかし、それは決して居心地の良いものとはならないのである。
行く先々で、わたくしは、場と対峙するように立ち尽くし、疎外感ばかりを強くする。
わたくしは、決して融け合う、交わることのない、エトランゼ(余所者)に過ぎない。
旅とはそういうものだ。


『帰る場所があるから旅は楽しいのだ』と言ったのは、高見順
全国を放浪して歩くということは、本来帰る場所がないことが前提にある。その点で、寅氏は両方の世界に足をかけている。
風光明媚な所ばかり流離った寅氏(何故なら、彼にはロケハンがあるから)の場合とは違い、自負できる訪問先の手持ちカードは、それほど多いわけではないが、その中から、わたくしの好きな風景。
九州・城下町編。
 ★飫肥(〜油津)
 ★秋月
 ★日田


〔写真は油津(堀川運河)〕


わたくしが考えるところの旅の本質を示している、表題の小説については、また別の機会に書こう。
それは、わたくしの10代の頃のバイブルの一冊でもあったものである(「MY BOOK」で呼ばれたら、是非紹介しようかと常々考えていたが、その番組も既に遠い昔に終わってしまった)。


本日の音楽♪
「ジャコビニ彗星の日」(松任谷由実