自転車でおいでよ

《オート・モビルに替わるバイ・サイクル》といった所謂一つの決まり文句であるところの”eco”なキャッチフレーズを掲げて、自転車ブームが世間に好感を持って受け入れられているこの現状に対して、一介の天邪鬼は、余程素直になれないでいる。


まずもって、自転車と自動車(あるいはオートバイク)を比較するということは、御握りと懐石弁当の違いほどもある。
どちらが優れているかなど、そもそも比較をすること自体がちゃんちゃら可笑しい。
つまり、自転車は自動車に取っては替わらない。

石油資源の節減は必要欠くべからざる現下の重大事ではあるが、自転車をもってこれの免罪符にするというのでは、すり替えマジックに等しい。
例えば、「実はこのたび、マイカー通勤を自転車通勤にかえまして。エコでしょうが。わはは。」という事例があったとして、それは、そもそも自転車で通えるような状況(近距離条件)の下で、わざわざ自らの自動車を使っていたその浪費行為が歪(:いびつ)そのものであったのであって、「成る…エコで。ごもっとも。」などと膝を打つ話ではない。

例えば、移動距離が10〜50km位ある条件の下で、自動車に替えて自転車を利用しているというのであれば、理解は出来ないでもないが、それであっても、公共交通手段での代替も可能である。
糾弾すべきは、無駄な石油資源の使用であり、自転車使用を褒めても仕様がない(この場合、寧ろサドル上の御方のタフさを褒めたい)。

自転車にあらぬケチをつけているわけではない。
自転車と比較すべき移動手段というものがあれば、それは、徒歩であるということをまずもって主張したいのである。
そして、であれば徒歩との比較において、自転車というものがどこまで巷間言われるところの”eco”なのかについて、よくよく考えてみたまえ、ということである。

その途端に、わたくしたちは、駅前に溢れかえる鉄屑の塊のようなバリケード様駐輪や交通法規一切無用の傍若無人の往来ぶりといった姿を連想することができるであろう。
果たして、こうした自転車ライフをecoの象徴としてよかろうものか。
尤も、かような行為を見るにつけ、わたくしたちが自転車に対するecoへの思い入れなど本気で持ちあわせていないということは自明であろうから、そのことをちくちくと追求しても、詮無いことなのかもしれない。

多くの人々が自転車というものをそれなりに真面目に考える場面があるとすれば、商売での範疇は別にして、せいぜい自らの身体を鍛えるための手段としての利活用であろう。
休日。8時間体を鍛えたい。走るか。しかし、すぐにへばってしまいそうだ。8時間は無理だ。では歩こう。しかし、平均時速4㎞/hとして、4㎞/h×4時間(帰途の分を勘案)=16㎞先にしか行けない。隣町までか。行動範囲が狭すぎてこれではつまらない。
これが自転車であれば、12㎞/h×4時間=48㎞先にまで行ける。いろいろ知らないところまで行けて、楽しいじゃないか。旅行気分だ。
ということになる。行動範囲が9倍に広がる。それだけのことである。

自転車でツーリングをする。
シクロクロスではなく、ロードレーサータイプであっても安心して遠方に足を延ばせるのは、道路が舗装整備されているからである。砂利道では、こうはいかない。
そういった意味では、相当人為的な恵まれた環境の下で、親しむのが自転車なのである。
クオリティオブライフを指向するのは宜しいが、ゆめゆめロハスぶっては、いけない。

つまるところの結論として、自転車は、ファッションやオシャレとしてのツールとして受け入れたほうが、世の中の実態にフィットしているということなのであろう。
ファッション即ち見栄坊とはいえ、”eco”なんて虚飾の宣伝看板は、自転車には全く必要ない。
ビアンキのチェレステ・グリーンが町を颯爽と駆け抜ける。そのシーンだけで、充分ではないか。
これに尽きてしまうではないか。

一応最後に、自転車が好きであるという自らの証を兼ねて、わたくしの好きな自転車小説を掲げておこう。
読後、小説を真似て、青森に向かう中年サイクラーの輩が増えたとの由。やんぬる哉。
「男たちは北へ」(風間一輝)



本日の音楽♪
「裏切り者の旅」(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド