Science Only Lives Twice

国際捕鯨に関する国民的な関心が高まることは、歓迎すべきことである。
百家争鳴が為に、「鯨が可哀相」「業界利権打破」「反捕鯨暴力団体即検挙」といった底辺の議論が食み出てくる弊害は一部あるにせよ、己自身がステイクホルダーの一員であることを自覚しつつ、我が国と世界との協調の有りようという視点で、沈着冷静に考えるべき格好の素材となっている。
(当然のことながら、忍耐と寛容の訓練にもなる。)


IWCという場を舞台に、永らく膠着状態にある国際捕鯨交渉の現状を打破するための議長カードが最近出されたとの記事があった。
新聞記事によっては、多少捉え方が異なるようであるが、日本寄りか?と思われる記事から。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090203-00000016-jij-int

日本の沿岸捕鯨容認=IWCが議長提案
2月3日6時5分配信 時事通信

【ロンドン2日時事】国際捕鯨委員会IWC)は2日、捕鯨国と反捕鯨国が鋭く対立している機能不全状態の解消に向け、日本に沿岸小型捕鯨を認める内容を含む議長提案を公表した。IWCは提案内容を協議するため、3月9−11日にローマで会合を開催する。ただ提案の実現には総会での合意が必要で、今後反捕鯨諸国の反発も予想される。
 提案は、ホガース議長(米国)とIWCの作業部会が今後の議論のたたき台としてまとめた。日本の沿岸捕鯨に関しては、向こう5年間に和歌山県太地町、北海道網走市宮城県石巻市(鮎川)、千葉県南房総市(和田)の4カ所の捕鯨基地からの小型沿岸捕鯨に限り、地域内での鯨肉消費などの厳しい条件付きで認める内容。
 提案はこのほか、南極海での調査捕鯨に関して(1)向こう5年間で段階的に縮小(2)向こう5年間は年間捕獲枠を定めた上で継続−の両案を併記した。(1)の選択肢は事実上、日本への沿岸捕鯨容認と交換条件になるとみられる。また商業捕鯨に関しては、モラトリアム(一時停止)措置を当面継続するよう求めた。


察するに焦点は、調査捕鯨の存続の帰趨についてであり、国当局は、『調査捕鯨の継続』をあくまで前提とした上で交渉に臨む方針から、この提案を叩き台としてキックオフ作業に入る姿勢を容認している模様である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090203-00000082-jij-bus_all

交渉の余地ある=IWCの議長提案−水産庁
2月3日13時1分配信 時事通信

水産庁は3日、国際捕鯨委員会IWC)が公表した日本による南極海の調査捕鯨の継続や沿岸小型捕鯨を容認する内容を含む議長提案について、議論のたたき台として交渉の余地があるとの見解を示した。
 同提案は南極海の調査捕鯨に関し、(1)5年間は年間捕獲頭数を定めて継続する(2)5年間で段階的に捕獲頭数をゼロにする−の2案を併記。同庁は頭数を定めて継続する枠組みならば議論できるとして、現行の調査計画数(クロミンククジラ765〜935頭、ナガスクジラ、ザトウクジラ各50頭)の引き下げも含めて「交渉の余地がある」とした。
 これに関し、石破茂農水相は同日の閣議後会見で「調査捕鯨が継続できなくなる提案は受け入れられない。日本の従来の主張にかなった案を検討していく」と述べた。


さて、ここで、調査捕鯨はこの際廃止し(つまり、議長の両案の一方を飲み)、交渉を前進させるのが得策ではないかという意見を紹介したい。
この主張(以下「妥協案」と呼ぼう)の論旨は、以下の3点であると考える。
◆調査捕鯨(遠洋捕鯨)には経済的合理性がない。 したがって、これに伴う国益というものは重視すべきではない。
◆むしろ国益の保護の観点からは、沿岸捕鯨に対する梃子入れが必要である。
◆一方で、膠着に伴う国際的協調に関する機会の損失が国益の観点からは大きな傷手である。

どうやらこうした妥協案の賛同者は、遠洋調査捕鯨廃止の見返りに沿岸小型捕鯨の果実を得るということを取引材料として、この議長提案が時宜を得たものと餌に飛びついた格好の絵柄となっている。
国当局がどのような腹案を抱えているのか、今後どのような交渉の帰趨を辿るのか全く知る由もないが、この際、上記妥協案がもたらす『敗北と喪失』といったものについて、考えてみたい。


わたくしは、遠洋捕鯨と沿岸捕鯨を両天秤にかけてどちらが得か、という議論には余り興味がない。
そういった議論もあってよいのかもしれないが、そもそもこうした妥協案の通底にある考え方は、狭い意味での自国益の比較といった見方に過ぎないのではないかと考える(然も、その比較のための専門的知見をわたくしはほとんど持ち合わせていない)。

国際交渉において自国の主張や国益だけを押し通すだけでは交渉は成立しない。
まずもって、この建前的正論がある。
交渉事において互いの国が自らの正義を主張しあえば、その究極の果ては、武力行使(戦争)に結びつく。
戦争は互いの正義を一方的に主張しあう。つまり、「シロ」か「シロでないか」を争う。このため、妥協の余地は一切ない、解のない不毛な争いとなる(「シロ…っぽい」は解にならない)。
そして、戦争は、相手のおよそ凡てを否定することに結び付く。人間であることの否定といってもよい。
であるからして、戦争は人類共通の敵と看做し、国際平和の希求は人類共有の価値観を持ちうる。

つまるところ、冒頭の自国の主張だけではうまくいかない、という定理になるわけであるが、そこを打破するために、ルール作りの前提として、各国が納得し得る共通目的や共通規範という土俵を設定しながら、国際交渉を行う知恵をわたくしたちはこれまでに身に付けてきた。

経済的な国際交渉事として、貿易ルールを定めるWTOという舞台がある。
自国の我を通すだけでは、如何ともし難い状況があって、時として(往々にしてという見方もある)、苦い水も飲まなくてはならないということをわたくしたち日本人は、このWTOにおける交渉において、相当の経験を積んできた。結果だけを見れば、国益一辺倒ではない思考回路も学習をしてきているということである。
そして、WTOの貿易ルールの合意を見ているその前提となる土俵には、貿易に関する基本的な哲学(考え方)という合意があって、ルール作りの協議が成立している。
曰く、保護貿易は原則撤廃の方向に進めましょう、関税措置はできるだけ低く抑えていきましょう、各国の保護水準等を計測するための共通の物差しを設定しましょう云々といったことである。


前置きが長くなったが、ここで、今回の遠洋調査捕鯨廃止を取引に実利を得るとの戦略に基づく妥協案についてである。滔々述べてきたとおり、国際捕鯨交渉においても、国益の上位概念がある。
それは交渉に係る規範という枠組みである。

なにゆえ、これまで捕鯨国における捕鯨行為が認められてきたか。
捕鯨国は自らの捕鯨の正当性を、当該鯨種について十分な個体数が確保でき、種の絶滅の恐れには及ばないことを主張する。(もちろん、文化や民俗性維持の観点からの主張もあるが、ここでは割愛する。)
十分な個体数の確認のために、科学的調査がIWCにおいて、例外的にではあるが、認められている。
「例外」と「認可」というある種のコンフリクトこそが反捕鯨国との間での妥協の産物であったのだろうと類推される。
であったとしても、この点は、これまでにネゴシエーターたちが営々と築き上げてきた規範即ち基本哲学に関する実績の楼閣でもある。

調査捕鯨の廃止は、このコンフリクト的妥協を含む規範の否定を意味する。したがって、交渉の前提となる基本哲学ともいうべき枠組みが消失してしまう。
これに代わる新しい規範はあるのか。
現段階では、一部の民俗・文化を維持するための捕鯨という妥協点しか見出していない。それは、既得化されつつある規範でもある。
国益論に与するわけではないが、交渉事としての枠組み上のメリットは、このままでは、何もわたくしたち捕鯨国にはもたらされないということになる。

したがって、調査捕鯨廃止の見返りに、(実利としての沿岸捕鯨の認知というレベルではなく)捕鯨国にとって利のある新たな規範の構築というものが必要になる。
而して、そうした新たな枠組み作りは可能であろうか。
豪州をはじめとするファナティックな反捕鯨国が冷静にそういった枠組み作りの場に参画するとは思われない。「全て振出しに戻れということか」と反撥されかねない。
よって、これは、現実的な選択アプローチとは言えないであろう。

妥協案を受け入れれば、結局のところ、規範という次元において、捕鯨国側から反捕鯨国側にシフトしたというその事実しか残らない。
新旧を対照してみるとすれば、規範の一つが消失したという事実のみである。
であったとすれば、これまで営々築き上げてきた土俵作りの努力は一体何であったのか。
捕鯨国の立場ということではなく、IWCという国の総体でみた場全体の公益というものが減退することとなるのではないか。
大いに疑問が生じるところであろう。

蛇足的に付け加えるが、日本がこのIWCの場のイニシアチブを今後も握りたいのであれば、場全体の公益という視点についての理解や共感はさほど遠くないものと思われる。
(但し、膠着状態に伴う損失を何とかしなければならないといった妥協案の3点目の主張のような謂わば痺れを切らしたアプローチとは、決定的にその視点が異なる)。


実はわたくしが、もうひとつ、個人的にというか、誰も指摘しはしないが、前述の規範を堅持・遵守すること以上に憂慮するのは、『科学的調査の否定』についてである。

科学的調査の結果、十分な個体数が維持・確保されているエビデンスを示したとして、反捕鯨国がそれに納得するわけではなく、そうした意味において、科学的調査が有効な交渉ツールになるかという点では今後とも過度な期待は持てないであろうことは分かる。
しかし、それであっても、わたくしたち捕鯨国の主張がわたくしたち自身、正論であると矜持をもてる唯一の手掛かりといってもよいものは、科学という点にかかっているとわたくしは確信している。

政治的決着ということがよく言われる。便利な言葉ではあるが、これほど人間を小馬鹿にした作法もない。
何とかそういった事態を回避するために、科学という共通の物差しが人類の世界の共通の土俵づくりの為に有効に使われている(もちろん、足りない部分は政治的判断で鞅々補強される)。

こうした取り組みは、科学の側にいる人間にとっても、意気に感じてよいことである。
況や、科学の側から科学的調査の意義をもっと後押しする声があってもよいのではないだろうかと思うのである。(せめて偶さか科学的調査を否定することは四方やないものとも祈念している。)
科学的調査の介在を否定することは、科学の意義を否定することにもつながることとなろう。

さらに付言しておくべきは、捕鯨問題に関する対立軸として、巷間「文化の衝突」とは呼ばれているが、換言すれば、科学的観点と科学外の観点との衝突があるということである。
少なくともこの対立軸において、科学の側が歩み寄れる余地というのは、科学という御旗を降ろすことではないだろう。

繰り返し述べよう。科学的調査の否定は、謂わば自然科学の否定である。
さきに掲げた規範の否定は、さすれば、社会科学の否定と言ってもよいのかもしれない。
つまり、こうした議論の主張の延長線にあるものとして、科学は2度死んでいるわけである。
これを人類共通の悲劇と呼ばずしていったい何と言おう。


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一応お約束かしら
「Live and Let Die(007死ぬのは奴らだ)」(ウィングス