高野喜久雄

いつの頃からかわたくしのこころには厚い澱のようなものが媚びり付いてしまっているようで、詩歌のような些か文字数制約のある文学では、腹の底から沁み入るような感動というものを容易に受け容れられなくなってしまってきているような気がする。

もしや、文字数制約が原因というよりも、読む側にインスピレーションとイマジネーションを強く要求するのが詩歌の特徴であるとして、わたくしの想像性(創造性)の決定的欠如にその因子は存在しているのかもしれない。

わたくしの自ら吐き出されるこの言葉に如何ともし難く、倦いてきたときには、若いじぶんに馴染んだ一流の詩歌にもう一度触れるに限る。
このBLGでも、ときどきは、ほんものの味という奴を味わうべく、成る可くわたくしは黙り込み、こうして好きな作品を載せるがままにしてみよう。

今日は、何度も唱んじることができる、美しく悲しいあいのうた。作者は、詩人でもあり数学者でもあった。

 あなたに(高野喜久雄


  ぼくは ぼくの恋人が
  君でも 君でなくともよかった
  のだと言い
  君もまた あたしの恋人は
  あなたでも あなたでなくともよかった
  のですと言う


  愛することも
  愛されることも
  所詮 凡ては逆向きの営為なのだと
  淋しく わらいあい
  あの 芝生の上に寝ころんで ぼくたち
  眼にしみる 空などをぼんやり
  見つめていたね


  そう
  あの時も
  まこと舞い上がれるものは
  雲雀だけだった
  


本日の音楽♪
「高校三年生」(森山直太朗