頭が固すぎるのは誰?

時にわたくしが身体の不調を訴え、お医者様のもとに伺うとした場合、わたくしは身体(なかんずく身上:しんしょう)を預ける患者の立場から、お医者様を信頼したい。
藪医者や偽医者の類は、真平御免被りたい。
分かりやすい例え話として、「氣やオーラで癒して進ぜましょう」だとか、聞いたこともないような天然抽出物や安っぽい金属性の輪っかを持ち出してきたりするような、所謂代替医療を信奉するようなお医者様であった場合に、お医者様を選択できる患者の立場として、わたくしはきちんとこれを拒絶したい。
科学的なエビデンスに依拠したお医者様を信頼したいというこうした考え方について、世間の中で異論は多くないと確信するのだが、一方で、情報非対称によってお医者様を十分に吟味できないわたくしたちにとって、こうした考えを自らの中でどこまで咀嚼し、突き詰めて徹底できるかということも、他方の契約当事者(患者であるわたくし)の問題として問われているのではないかと考える。

以下は、全くの個人的主観であるが、科学的エビデンスという最低限の共有判断基準は堅持するにせよ、例えば、「私(医者)の科学的学術的素養の基本は疫学であり、これを信じさえすれば大丈夫。」と堂々主張される臨床のお医者様がおられたとして、正直の所、わたくしはその方に全幅の信頼を置きたくない。
医学を医術という観点から見れば、科学・学術以外のスキルとしての重要性がこれあり、個々の人間性にも大きく依拠する部分でもこれあるが、この際ここではそのような<赤ひげ>論までを詳述するつもりはない。
寧ろ、医学を実学という観点で見たときに、ほんとうに疫学という学術的知見が実学である医学において絶対的王道的判断基準、つまり伝家の宝刀たり得るのかという点について、わたくしは素朴な疑問の口を差し挟みたい。

疫学とは「健康・疾病に影響を与える要因に関する学問」とされ、医学分野では、ある医学上の事象の発生状況(頻度、分布状況等)を分析することによって、何らかの有効な対策を講じようとするアプローチであると理解されている。
例えば、特定の疾病に有効な医薬品を見出すために、実験計画に基づく比較対照試験を行い、統計的処理も交えながら、当該医薬の有効性を定量的に評価する。さらに、こうした経験的知識を集約させつつ、一定段階において、統計的処理を行った上で、対処方策を構築する。
…このようなアプローチに異を唱えているのではない。

しかし、一方での鍵となる用語は、実学なのである。
統計処理という手法は、確からしさを確定するための便法であり(その便法自体が根源的にいい加減なものだとは決して思わない)、事象データ次第によっては、実用面での限界というものがきっとあるはずである。
したがって、availabityの問題があるといってもよいのかもしれない。

「疫学」で思い出すのが、数年前の病原性大腸菌O-157の集団発生事案の際のカイワレダイコン業者犯人説の根拠に使われたのが、疫学的推定手法であった。
当時のカン大臣が主導しつつ、国が当該業者を黒に近い灰色と断定していたものと記憶するが、その後、事実解明はどうであったか。
その後の「十分な科学的根拠を持たない疫学調査」という判決を聞いて、わたくしは疫学というツールの使い方について、懐疑的な思いを抱いた。
それは、収集データの限界でもあり、処理能力の限界でもあったのだろう。
そしてそれは、当該手法の学問的な価値の否定につながるものでこそなかったが、しかし、実学としての医学の場面での疫学手法の活用・応用の限界(最終判断の際の選択の誤り)にも結び付くものではなかったのか。

敢えて仮想すれば、疫学におおいに拘った彼、かれらの誤りの背景に、科学への安易な依拠、拘泥、絶対視がなかったかということである。
狭い意味での科学のフィールド(アカデミーという言葉に置き換えてもよい)でこれらを語ることには異論を挟まない(その場合、「不明」という解が近似だったかもしれない)。そして、「何事にも限界はある。また、行き過ぎてしまう(陥弄に嵌る)のは我々の悪い習癖。程度論。」といった反論、説得論にも与さない(このような反論は一般論に敷衍した途端、意味が霧消する)。
ことは実践を要求される実学の上で考えるべき問題なのである。

それでは一体、医事療界において、このようなファナティックな疫学信奉が罷り通っているのか。幻想ではないのか。
全貌を知る由もないが、わたくしは、冒頭懸念のような、「疫学」とか「統計処理」とかを錦の御旗のように、盾にして、広言している集団を認識し、そして憂慮している。
EBMも結構であり、客観的事実や経験則は大切にしたいが、お医者様自身が「疫学絶対」とか「前例絶対踏襲」に固執・拘泥する限りにおいては、実学の実践者の姿勢としていかがなものかとの思いを禁じ得ず、その点で、わたくしは確かに信頼を寄せない。

同じ実学である農学を例にした場合、「農薬は、標準防除暦に従って、記載された水準、用法を守ってその通りに使えばよろしいのです。」と得々語るだけの営農指導役の諸兄は、決してお百姓さんの信頼を勝ち取れない。
そして、マニュアル(基本技術)を守ることは当たり前のことであっても、人間やその他生き物相手の制御管理は難しく、なかなかマニュアル通り画一的には行かないからこそ、実学の奥深さもあるのではないかと考える次第である。
であるからして、公然と「お医者様の基本は疫学」と宣言するのを耳にしたとして、「単純明快に割り切れない世界で伝家の宝刀なんてものはありはしないのでは」との思いを致すわたくしとしては、半歩も一歩も退いてしまうのである(まさか、筮竹に代えて「疫学」の棒を振り回し、当たるも当たらぬも八卦八卦と言っているわけではあるまいに…)。

お医者様と言ってもじつに様々な分野の方々がおられる。
基礎医学の分野の方々には、是非、分子・細胞レベルからの発生機序を解明していただいて、出来る限りきっぱりとした要因分析をしていただきたい。ここでも統計処理は重要な役割を発揮する。

さて、疫学云々を直接論じているわけではないが、わたくしてきに真摯な対応をされているお医者様のHPを備忘対応として、最後に添付しておく。
このHPを見て、わたくしは、こころの病に対する認識、エビデンス本位の診断、そしてそうした判断の通底に流れる、過度に情緒的でない、他方で商の余りをも見越した、冷静な思考法と卓越した論理に感心をし、共鳴をしている。
http://kokoro.squares.net/

本日の音楽♪は、「Regrets」(KAN)にしようかと思ったが、余りに出来オチのような気がするので、
「Wuthering Heights(嵐が丘)」(ケイト・ブッシュ