むしめずる

子供時代、昆虫は一種の財宝だった。
夏が来るのが待ち遠しかった。春三月、四月。雪が消えて、草木が芽吹いてくるのに、昆虫の姿がどこにも見えないことをたいへんもどかしく思った。
そういう記憶を強く残している。常夏の住人には分かるまい。

夏の夜は近所のガソリンスタンドに出かけた。
夜の闇の中から、ガソリンスタンドの強烈な光に誘い出されて、昆虫たちが集まってきた。
車の邪魔にならないよう、じっと塀の傍に佇んで、彼らが訪れるのを待った。

財宝にも序列順序というものがあり、何と言っても、クワガタムシ(雄)、カブトムシ(雄)の甲虫は、別格であった。
続いて、これらの雌、カミキリムシ(ミヤマ)、カマキリ、カナブンブン、コガネムシ系、ガムシ(水生昆虫、ゲンゴロウよりもつるんとしていて多少味気ない)、バッタ類、ゴミムシ系(たいへん臭い)…といった虫が続いた。

何かが外灯や白い壁に飛び込んでくる度に、走り出して行って捕獲するのであるが、何かの拍子に大きな昆虫が飛んできて、夢中で駈け寄り手で捕獲した。
どきどきしながら、掌を開けてみると、大きなゴキブリだった。
わっと言って、飛び退いた。

何故、飛び退いたのだろう。
昆虫に嫌悪感はない。蝗でもワーム系でも平気で美味しく食べられる。
ましてや、ゴキブリに噛まれて痛い目に遭わされたことなど毛頭ないのに、飛び退き、手を振り払い、そして、叩き落とした。
ああいった拒絶感は、後天的なものに違いないのに、どこでどう教育されて私の身についたのだろう。
不思議な思いがする。

ゴキブリには失礼なことをした。
しかし、今でもかれらは遠慮したい。
南の島には巨大なやつが棲息しているそうだが、想像してしまうと、共存共栄するのはとても無理そうだ。
「何の因果で、」と彼らに恨まれたとしても、申し訳ないのだが、宿命だと念じ、ご勘弁願いたい。

今でも、林や河原で椚や木楢や柳の樹木を探し出し、昆虫の隠れていそうな箇所を探し出す嗅覚というものをわたくし自身忘れてはいない気がする。
これも果たして、後天的な獲得資質ではあると思うのだが、現代の子供達にも以心伝心受け継がれているのであろうか。

本日の音楽♪
「夏」(因幡晃