めずらしいむし

むしのはなしの2話目である……
当節、夏休みを迎えて、イトー(※イトー●ーカドーの事)の玩具売り場辺りに行くと、ケースに入れられた昆虫類が大量かつ壮観に並んでいたりする。
お約束である日本産のミヤマ、ノコギリクワガタ、カブトムシの人気者に混じって、ヘラクレスやアトラスといった外国原産の巨大な新しい甲虫類を目にすることが出来る。

わたくしは、幾時間でもそれを眺めていて厭きない質(:たち)なのであるが、子供たちがわたくしを怖がって、店の営業妨害になるといけないとも思い、なるべく長居はしないように自粛を心掛けている。

これら外国産の昆虫類が日本で多く見られるようになったのは、植物防疫法の観点から、輸入が許可されたため。つまり、農作物に害悪を及ぼさないことが明らかになったため、ということらしい。

そして、昨今耳にするのが、こうした外国産昆虫が自然界に逃げ出してしまい、在来昆虫との交雑種(つまり、あいのこ)が生まれ始めているということ。
外来生物が在来種を駆逐するといった話は、淡水タナゴなどで聞いたことがあるが、この甲虫の場合は、どうやら交雑を問題視しているようだ。

柳の樹の根っこを穿(:ほじく)っていたら、体長18センチメートルにも及ぶ角三本のクワガタムシが出てきた!などということは、想像しただけで、確かにゴキブリ以上に魂消てしまう話には違いないとは思うのだが、そこで一体、交雑種の何をもって悪者扱いしているのかというと、それは「生物多様性の問題」…  なのだそうである。

交雑によって、自然界ではあり得ない種の生物が生じ、本来の固有種に悪影響を及ぼす(激減させる)、あるいは、固有種の遺伝資源や遺伝的な意味での多様性が損なわれる、といった点が問題なのだそうである。
付け刃でそう説明をする素人のわたくし自身、本当にそれで何が問題であるのか、果たしてピンと来ていない。

日本に本来棲息していなかった生物種が日本で棲息するようになった。しかも、それが人為的要因によるものである。
ということ自体が問題なのでは、きっとないのだろうとまず考えてみる。
生物世界において、「あんたはここに住んじゃ駄目」などといった人間が勝手に決めたルールも神の見えざる手もないのだから、どこにでも住むが宜しいと思う。
都心にニホンザルが迷い込もうが、本州最北地の地で厳寒に耐え生きようが、猿諸君にとって、どちらが望ましいかということはまったく分からない。好きにすればよい話だ。

わたくしの住む近所にも野生化したアライグマが棲息しているようなのであるが(かつて帰宅途中の駐車場で目撃をしたことがある)、アライグマがロッキー山脈の麓ではなく、日本に棲息すること自体が怪しからんのではない。
彼らが日本人の経済活動にとって明らかに悪さをする(例えば、畑を荒らす)から、迷惑動物として問題視されているのだろう。特定外来種といってレッテルを貼った法律もあるようである。
それでは、生態系という観点でみて、彼らアライグマは、何か悪さをしているのだろうか。

沖縄本島にかつて放たれたマングースが増殖し、特別天然記念物であるヤンバルクイナを捕食し、その数を減らしている、という話はタナゴの話同様に分かりやすい。
ヤンバルクイナの絶滅が危惧されているがゆえに、その貴重財産(貴重かどうか、まさに人間の勝手な判断ではあります)を守りたいということである。
外国から導入した大型ミツバチが大雪山のお花畑で確認された。在来種が駆逐されてしまうかも(「かも」だ)。どうする。追跡者は糾弾する。弱い者、先住者を守れ。
そのことを理解した上で、マングースは、外来ミツバチは、ブラックバスは、特定外来種は、生態系「全体」にとって何か悪さをしているのだろうか。

要すれば、こういった外来侵入生物は、本当に生態系というシステム全体を攪乱させて、現存の生態系の価値の何かを貶めているのだろうか、という点がどうにもピンと来ないのである。おかみの資料を読んでも、さっぱり分からない。

仮に、生態系の維持、つまり、現在の生態系を断固守りきる、生物種ひとつとっても鐚一文曲げないことが何よりも大事なのだということであれば、現在の生態系の価値と、爾後の(異なる)生態系の価値との違いは、何であるのか。
そして、そこまで、超コンサバティブに捉えるのであれば、批判の矛先は特定生物種のみならず、人為活動全てに向けたほうがよい。文明批判という草臥れた縄で括ってしまおうではないか。

オオクワガタを人工培養で巨大化させる技術が一般化してきている。
こうした巨大国産クワガタを野生に放逐することには、何か問題があるのだろうか。
ペットの放任、野生化に絡む倫理的動物愛護的問題以外に、生物多様性の問題として、オオクワガタが北国で棲息することによる環境への悪影響とは一体どのようなものがあるのか。
単なる想像や仮定の世界ではなく、そのリスクやベネフィットは、きちんと分析されているのだろうか。
貧栄養カルデラ湖に棲息する導入ヒメマスは悪者なのか。

田圃の赤トンボは、なにゆえ貴重なのか。
赤トンボがいれば、トンボ(ヤゴ)のえさであるオタマジャクシやヤブ蚊やダニ類の小動物がいて、トンボを捕食する鳥類やは虫類がいて、という風に、赤トンボによって、生物種が沢山いることが明らかになるのです。という話を聞いたことがあるのだが、なにゆえカメムシやハサミムシで代替してはいけないのか。
また、生物(の種類)がいっぱいいればよい、というのは一体どういう意味があるのだろうか。
セアカコケグモが増えて、捕食動物が増えるということは、蜘蛛にちくりと刺されるリスクは別にして、どう評価すべきなのか。

もう一つ、ピンと来ていないのが、相手が昆虫で、しかもあいのこを問題にしている場合。
魚類、両生類、は虫類、鳥類、ほ乳類という脊椎生物種に従って、希少種を保護したい気持ちが強まることは、分からないでもないのであるが、それは一種の依怙贔屓みたいなものだ。
鯨熱烈歓迎過激集団と根は一緒である。
わたくしたちは、稀少ゴキブリやレッドデータのげじげじに同じ思いを致すことができようか。

そしてまた、昆虫よりも小さな、極端な話、トビムシや微生物の多様性というものはどう考えればよいのだろう。
いったいぜんたい微生物群のメタな多様性というものがどうなっていて、どうあるべきかなんてことを誰が知っているのだろうか。

さらに、あいのこは、何が問題なのだろう。
形態的に交尾交雑不可能な種が増えることによって、結局、子孫継承出来ず、絶滅していまうということなのか。本当にそのような問題が実証されているのだろうか。
大量に人工ふ化した鮭と在来マス科魚類との交雑可能性については、どうなのか。
この手の話は、非常に、極めて、センシティブな事象であるように考えるのだが、乱暴にもんだいもんだいだと俎上に上げる風潮がなくはないか。

しぜんが多く残されていることはよいことのように思う風潮が強い。
しかし、皆がイメージするそのしぜんの多くは、身近な雑木林や田圃の二次自然であり、はるか彼方にある行ったこともない原生林の一次自然である。
両者の管理制御の仕方は、270°ほどは異なるんではなかろうか。
農業は農薬や化学肥料を使わなくてもしぜん破壊の典型であるというのが世の常識ではないのか。誰も管理しなくなって荒れた竹林は、しぜんなのか。
わたくしたちは、何だかとても乱暴で画一的な幻想に振り回されてはいまいか。

生物多様性というはやり言葉。
「胡散臭い」といってしまうとその筋の方々が抗議に押し寄せてきてしまうので、もっとオブラートに包む必要があるのかもしれないが、こうした動的複雑系については、おそらく誰もわたくしも何も分かっては、いまい。
わたくしには、偏狭に、かつ、感情に訴えながら「生物多様性」と声高に叫ぶ一部のエコ諸派と所謂民族主義者の主張には、同床の危うさといったものを感じてしまうのである。

本日の一曲♪
自転車泥棒」(ユニコーン