新種の蛙を食べていた放鳥朱鷺にその味加減を尋ねてみたい

自然環境を題材とするニュースからの素材である。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090301-00000065-san-soci
◆新種のカエル 放鳥トキが食べていた
 国の特別天然記念物のトキ10羽が放鳥された新潟県佐渡市で、新種の可能性の高いカエルが発見された。本州以南に分布するツチガエルに似ているが、腹部が黄色で鳴き声も全く異なるため、佐渡の固有種とみられる。放鳥トキの大切な餌になっている。脊椎(せきつい)動物の新種が国内で発見されることは珍しい。

『カエルもトキとともに保護してほしい。』との関係者談話が最後にある。
新種の蛙を保護すべきか、絶滅の危機に貧する朱鷺の餌として優先的に確保すべきかで悩ましい心境になっていた読者諸兄にとっては、まことほっとしたに違いあるまい。


尤も、こうした考えを持ってしまう彼らのそもそもの勘違い・筋違いは、蛙や朱鷺といった特定種のみにばかり関心を抱いて、それのみを保護しようとする考え方そのものにあるのだろうと思う。

例えば、蛙の補食先にはまた貴重な希少種の昆虫がいて、その先にはまた見たこともない野生種の草花が咲いていて、、、といったことを仮想してみればよい。
そのような事態を想定してみれば、どの生物種を優先的に保護すべきかといった取捨選択の問題には、まずならないだろう。


では、平等平和思想に徹して、どの生物種も個々に等しく保護しようという発想に結び付くのか。
例えば、新種の蛙を朱鷺から守るために、朱鷺を特定聖域に立ち入らせない。野生種の草花を守るために昆虫を一切寄せ付けない。
そういった人為的操作を延々繰り返すことを想定してみれば宜しい。
その多元連立方程式は、決して収束などするはずがない。
このような複雑系を前にして、最適解を探しだそうなどという発想自体が奢っているともいえる。


系全体で捉えるとの見方は宜しい。
それは確かに一歩前進ではあるが、現在の系の部品を何一つ変えることは許さないといった超保守的環境保護の思考はいただけない。
それでは、全体でも三歩後退だろう。

要すれば、蛙が朱鷺に食べられてしまおうが、朱鷺が狸に襲われようが、はたまた、関東蒲公英が西洋蒲公英にとって替わられようが、そんなことをいちいち気にしていてはまったく詮無きことなのである。
システム(系)の次元の問題として捉えた上で、それは、レッセフェール(わたくし流に意訳するとしたならば、『今日の風の為すがまま』)を基本とすることが望ましいだろうということなのである。


こうした自分の考え方を整理しながら、以前わたくしが述べた「生物多様性の考え方が分からない」という疑問にも再びつながっていくことを自覚する(1月26日付け「めずらしいむし」を参照のこと)。
個々の部品歯車の有る無しではなく、システム全体で捉えるという視座を共有した途端、それでは、そのシステムを評価するための物差しとは何であるのかという疑問に直面するのである。
そして、どうやらその物差しが生物多様性らしいぞというのが社会の様子なのであるが、そう言われても、具体的な判断基準や物差しの目盛りといったものがまるで理解できていないというのが現在のわたくしの認識でもある。


横道に逸れてしまった。
本題である。レッセフェールは、諦めて何もしない、あるいは、人為的に一切手を加えないということではない。
それは、極論すれば、人為的干渉は最低限許容するけれども、その手段だけで系を維持しようなんて烏滸がましいことは考えなさんなという意味である。

おそらく環境影響を受けやすい固有種を保護したい環境主義者にとっては、こうした主張は諦観主義にも似て、到底容認できない考え方であろう。
しかし、わたくしは、「絶滅したら永遠に復元不可能」と脅されて、特定固有種の大切さをいくら啓蒙されようが、その種そのものへの価値観は外来種含めて全て等価であると考えているし、特定の種に着目して人為的制御をかけた途端、全体の系のアウトプットも大なり小なり変容してくるのだろうと考えるのである。
(逆説的に言えば、それでも敢えて鯨を護ることを使命とする鯨熱烈歓迎過激集団連中は、きっと最上位に鎮座まします創造主の心持ちなのであろう。)
繰り返すが、変容がいけないと言うことではなく、全体の系がどうなるのかよく見よう、ということである。


彼我の違いばかりを強調していても仕方ないので、前向きに結ぶとすれば、こうした報道から、「放鳥によってあの島の自然環境はこれからどのように変化していくか」を考えるきっかけになればよいと思っている。


本日の音楽♪
「ピーチメルバ」(古内東子