本はともだち

諸般の煩わしさを鬱積させてしまいがちな通勤時間に、こころを開放させてくれる読書は、欠かせない。
せんに、「ねぼけ署長」(山本周五郎新潮文庫)、そして「黒いハンカチ」(小沼丹創元推理文庫)をつづけざま読了。


ともに、終戦直後から昭和30年代にかけての軽い味のミステリであり、深い考察を要しない佳品。
とまれ、作品自体のよしあしとは別に、読後ふと考えてしまったことは、当時の善悪の価値観についてである。
典型的な勧善懲悪という内容ではないが、特に前者の作品については悪や不道徳を懲らしめる、あるいは戒めるという姿勢が首尾一貫している。悪や不道徳の基準に多少の時代性はあるにせよ、そこに大きな違和感はない。ただし、現代では、「悪を追求する手段はどのようにあるべきか」「悪を操る人間のどこまでを赦すべきか」「小さな不道徳は見過ごすべきか」といったある種輻輳し複雑な観点から逃れられない。単なる勧善懲悪のお話だけでは、人々の心を納得させられない。
決して、昔は単純でいい加減であったとか、現代がわかりにくくなりすぎていておかしいとかと言う文明批評の意図ではない。思うのは、こうした反人間的な事象に対するわたくしたちの見方、価値観の変わりようについてである。

そこでふと思いを致すのは、二代目ブッシュ米国大統領の善悪二元論についてである。
話が飛躍するのであるが、ブッシュからオバマへの移行期の今にあって、旧主の善悪二元論は、批判の矢面に立たされている状況にある。

http://www.asahi.com/international/update/0116/TKY200901160084.html

批判派は、テロやテロを引き起こす者を容赦しているわけではないが、アルカイダという一種の幻想を見立てて、テロ撲滅を推進するその手法に疑問を呈しているのだろう。
幻想(わら人形)見立てについては、後日また考察するとして、人格はあるが一様ではない集団ましてや地域・国家を単純に悪と見立て、これを叩くその単純さに批判が集まっているのではないかと考えるに、例えば、寝ぼけ署長の構図は現代ではとても容認され難いであろうということなのである。

繰り返すが、だからこの作品が瑕疵があるということでは決してない。懲らしめ方に違和感を表明する以上に、かの主人公の寛容さ(そうなのだ。この寛容さがかけがえのない価値であり、わたくしたちが羨望する対象なのだ。)に心ゆるして文を追うことを本望としたい。

さて、本日の一曲♪

「塀の上で」(矢野顕子